菊池寛実記念 智美術館

ストーリー Storyストーリー Story

菊池寛実記念 智美術館は、当館設立者で現代陶芸のコレクターであった菊池智(とも、1923〜2016)のコレクションを母体に、現代陶芸の紹介を目的として、2003年に港区虎ノ門の閑静な高台に開館いたしました。この地は、智の父である実業家の菊池寛実(かんじつ、1885〜1967)が晩年の活動の拠点とした場所であり、美術館の設立も父の余光によるとの想いから、菊池寛実記念と称したものです。当館は現代陶芸を中心に、優れた造形作品をご紹介する様々な展覧会を開催しており、さらに陶芸の枠にとどまらず、現代工芸の発信地となるべく活動を続けております。

智と陶芸との出会い

当館設立者の菊池智が実際に陶芸と出会ったのは第二次世界大戦中のこと。炭鉱を経営していた父、寛実が、徴用で働きに来ていた瀬戸出身の陶工のために登窯をつくり、東京から疎開してきた智がそこを訪れたのです。土からつくり出される新たな「生」との出会いは、二十歳をすぎたばかりの多感な彼女の目に宿命的なものと映りました。

「たまたま訪れた私は驚嘆いたしました。土の塊が、まるで魔術のようにろくろの上に形が整えられ、火の洗礼を受けて窯の中から美しい陶器に生まれ変わって私の前に姿を現したのでした。毎日のように死と対峙せざるをえない生活の中で『ここに生があった』という感動が、私の心の中を駆け抜けました。『土はすべての始まるところであり、また、いつか帰っていくところである。』多くの愛する人達を失った悲しくも鮮烈な想いから、土からつくり出される陶芸は私の人生において避けて通れないものになったのでございます。」

  • 終戦後しばらく経った1950年代半ばあたりから、智は陶芸作品を購入しはじめます。最初は茶の湯への関心から数寄者や専門家と交流し、古美術や古陶磁への趣味を深め、次第に「見る」感動だけでなく、「手元に引き寄せる」ために、作品を購入するようになりました。やがて興味の対象は智自身と同時代の作家たちが生み出す陶芸作品へと広がっていき、次第に現代陶芸を中心に蒐集するようになっていきました。

    「いつ、どんな美が私の前に示されるか分からない、そういう未知の感動を追いかける楽しみが、私を惹きつけたのではないでしょうか。思いがけない美をつかめるのが、現代陶芸の魅力ではないかと思っております。」

  • pic
    藤本能道《色絵小禽文絵変り飾皿(翡翠)》より 1976年

「現代陶芸寛土里」のオープンと米国での「現代日本陶芸展」

  • 1974年、智はホテル・ニューオータニのロビー階にギャラリー「現代陶芸寛土里(かんどり)」をオープンさせます。東京芸術大学の教授であった藤本能道の個展で幕を開け、まもなくギャラリーは若手の登竜門の様相を呈し活気づいていきました。一方、「マチコ、マチコ」と益子焼を求めて立ち寄る外国人も少なくなく、智は、日本の陶芸が海外で偏って理解されていることを知り、現代の日本陶芸を海外に紹介すべしと発奮します。おりしも日米間は貿易摩擦でぎくしゃくしている頃。智は、それが日本の文化の理解にもつながればと思いました。

    1979年、ニューヨークの老舗百貨店ブルーミング・デールズに寛土里が出店するという機会が訪れ、その成功がさらに大きなチャンスを招きよせました。日本の現代陶芸をワシントンにあるスミソニアン自然史博物館で紹介してみないかという展覧会の誘いが智のもとにきたのでした。

  • pic
    八木一夫 《黒い花》 1975年頃
  • 1983年、2月11日からの二ヶ月間を会期とし、スミソニアン自然史博物館のトーマス・M・エバンス・ギャラリーで、「Japanese Ceramics Today- Masterworks from the Kikuchi Collection(現代日本陶芸展)」がはじまりました。

    日本の現代陶芸を海外で紹介した初めての本格的な展覧会で、出品作家100人、作品数およそ300点による大規模な展観となりました。出品作家のうち半数以上が30、40歳代でした。若手を多数登用した斬新な構成で、日本陶芸界のオン・タイムな動向を欧米に伝えようという趣旨がはっきりと示されていました。すべて菊池コレクションからの選出でした。

    展覧会は、現代陶芸を美術作品としてだけではなく、日本人の暮らしに根ざす実用の器としても紹介するものでした。たとえば茶の湯の世界を紹介するために四畳半台目の茶室がこしらえられ、茶道具が臨場感をもって展示されました。また、別の空間では、畳の上に懐石膳がしつらえられ、あるいは、四季を意識した季節感のある食器を組み合わせた一隅もありました。

  • pic

未曾有の大成功をおさめた展覧会は、英国ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に巡回しました。近年の欧米における日本の現代陶芸ブームの種はこのとき蒔かれたのかもしれません。展覧会の成功はひとえに智の熱意によるものでした。私財を投じて全力投球する彼女の思いが、作家を動かし、組織を動かし、展覧会として結実したのです。

「今でも、私の半生を注ぎ込んだのがスミソニアンでの展覧会だったと思っております。あの時は、たとえ命をもっていかれても構わないからと、憑かれたように駆り立てられて米国での展覧会を成し遂げようと思ったのでございます」

展示デザイナー、リチャード・モリナロリ氏との出会い

スミソニアンでの展覧会では、智美術館の設立につながる重要な出会いもありました。スミソニアン自然史博物館に専属していた展示デザイナー、リチャード・モリナロリ氏との出会いです。

モリナロリ氏の演出は、鑑賞者を展示の世界に引き込むためにトータルなものとしてデザインされ、同時に、個々の作品の魅力を引き出すという繊細さをあわせもっていました。現代陶芸の美は、伝世品などの古美術の賞翫よりも、はるかに個人的でデリケートな感覚ですが、智の感覚を共有し、展示によって示す才能豊かな理解者があらわれたのでした。

智とモリナロリ氏とのコンビネーションは、その後、菊池ゲストハウスで開催された3つの個展に活かされます。1985年の鈴木藏個展「旅路転生」、90年の樂吉左衞門個展「天問」(写真左)、92年の藤本能道個展「陶火窯焔」(写真右)です。

pic

どの展覧会もモリナロリ氏が会場デザインを手がけ、10日前後という短い会期にもかかわらず、準備には数年をかけたといいます。作家をはじめ、企画者、デザイナーの三者が創造的に火花を散らした、言わば究極の展覧会となりました。

当館が2003年に開館したさいにも、展示室のデザインはモリナロリ氏に委嘱されました。企画展の必要に応じて手を加えながら現在にいたります。展示室は、緊張感のただよう非日常的な場であり、純化された空間での美との邂逅をイメージしています。作品は、スポットライトを浴びる舞台俳優のように煌いて存在します。そしてそのような作品に見る人自身の美意識を重ね合わせながら、ゆっくりとご鑑賞いただくことができるのです。